HAKKO TOTAL AMENITY SUPPLY

真っ白な黒子

白興の三事業は、全て裏方・黒子の仕事です
舞台が輝くために一流の黒子であることが、
私たちの誇りです

私たちは黒子です
主役を際立たせる、真っ白な想いを持った
黒子なのです

白興の歩み

0.最初の成功を捨てて

■創業までの時代的背景

弊社の創業者 堀井美興が生まれたのは1929年。
日本で最初のターミナル・デパート阪急百貨店が開業した年であり、第二次世界大戦の引き金の一つとなった世界恐慌が起こった年でもある。
10歳から16歳までの多感な時期に第二次世界大戦、そして終戦を迎え、代用教員、会社員を経て、中学の同級生と共同でクリーニング店を開業することとなった。
創業者、小学校での集合写真
創業者、小学校での集合写真

■共同経営者の夫婦喧嘩より

当時のクリーニングはほとんどの工程が人力。作業は常に肉体労働であり、炭火のコンロをこれでもかと燃やした中、蒸し風呂のような部屋で乾燥作業を行い、夜は夜でなれない手つきでアイロンを握る。そんな努力が実り、商売も軌道に乗ってきた頃、創業者はある決断をする。きっかけは、共同経営者の夫婦喧嘩。長屋の隣に住んでいたこの夫婦、金銭的な不安もあり、とにかく喧嘩が絶えなかった。自分が抜けることで給料が大きく増えれば、少しは夫婦喧嘩も減るだろう。
関屋界隈
関屋界隈
経営が安定してきた、そのタイミングで創業者は自分で買いそろえた機械一式と顧客を全て相手に譲り、別の道を歩むこととしたのである。この時のことは、のちに「”ゼロ”から始めたのだから、いつでも”ゼロ”に戻れる気構えであった」と語っている。
関屋界隈
・1929年 世界恐慌
・1929年 創業者 堀井美興 誕生
・1939年~1945年 第二次世界大戦
・1953年頃 クリーニング業を開始

1.小さな洗濯機とアイロン、そして自転車でのスタート

■白光ランドリー 開業

前のクリーニング店を離れて、荒川区東尾久にて「白光ランドリー」を開業した。開店当初は安い回転式の洗濯機が1台と自転車のみ。創業者、アイロンをかける職人2名、番頭の4名でのスタートだった。当時のクリーニング屋は客の持ち込みがほとんどであったので、自転車による外交戦術は功を奏し、創業者も「やればやるだけ稼ぎを実感できた」と述べている。今度の事業も、順調な滑り出しを見せた。
荒川区東尾久 創業の地
荒川区東尾久 創業の地

■売上が伸びるほど、過酷になる労働

売上は好調なものの、イコール事業が好調とは言い難かった。売上を伸ばせば伸ばすほど、過酷になる肉体労働。朝早くから夜遅くまでガムシャラに働く生活。それでも、客からクレームは寄せられ、明日までに欲しいと、夜中にたたき起こされることもあった。そして、この時期、何よりも創業者を悩ませたのは、営業マンが育つと顧客を抱えて独立してしまうことであった。
新島小学校
新島小学校
・1954年 白光ランドリー 創業
・1956年 国際連合加盟、神武景気

2.創業時からあった、効率性への視点

■店を大きくするために、手作業からの脱却

これは、当時のクリーニングが、機械産業ではなく労働集約産業であり、元手がなくても事業が始めやすかったことに起因している。営業マンの独立を防ぎ、店を大きくするためには、手作業に頼るのではダメだ! 
機械化による抜本的な合理化が必要だと考えていた時、ちょうどドライクリーニングの機械を知った。これであれば、背広やオーバーが1時間以内で乾燥できる。
アイロン(イメージ写真)
アイロン(イメージ写真)
当時のクリーニング屋は、ドライで受注しても、普通にクリーニングし、最後にベンジンで香付して「ドライ風」に仕上げている店がほとんどだったという。つまり、当時のクリーニング業者にとって、ドライ仕上げは単にカッコイイ宣伝材料であり、効率性や経営といった観点からは考えられていなかったのだ。「これだ!」
創業者はドライクリーニングを見せかけではなく、合理化の手法として活用した。
ドライ機(写真は現在のもの)
ドライ機(写真は現在のもの)

■正攻法での勝利

しかし、当初から高額なドライクリーニング機が購入できるわけではない。まずは、ドライ屋にドライ品を外注に出すことから始めた。
この判断は大成功で、仕上げを必要とする商品が半減。その分の時間を営業に回すことで、さらに注文を取ることができた。受注量増加によりドライ品も増えたことから外注費を安く交渉することも可能になり、自社の職人も二人から一人に減って人件費も圧縮された。
創業者と長男正隆
創業者と長男正隆
他社がドライ品として「ドライ風(ドライもどき)」を販売する中、全くの正攻法により売上を伸ばし、企業を伸ばすことに成功したのである。
1959年には、念願のドライ機を購入し葛飾に工場を建設。「(株)白興商会(現:(株)白興)」を設立した。
今でも、白興の工場の強みは徹底した効率化にあるが、その感覚は創業当時から培われてきたものであった。
そして、この時期、創業者は妻(ミサ子)と結婚し、長男正隆が生まれている。創業者の弟で画家の堀井英男の話しによると、「兄の一目ぼれ」であったようだ。
東京タワー
東京タワー
・1958年 創業者に長男正隆(現社長)誕生
・1958年 東京タワー竣工
・1959年 ドライ事業への参入
・1959年 環境衛生法の施行

3.リネンサプライ進出の源は、創業時からの悩み

■町のクリーニング店からの脱却

ドライクリーニングを皮切りに、「町のクリーニング屋」からの脱皮を完了した弊社であるが、創業時からある「顧客を抱えた営業マンの独立」には、規模が拡大してからも悩まされた。何か、対策はないか・・・
考えた時に出会ったのが、同じクリーニングでも、顧客が個人ではなく、法人(企業)となるリネンサプライの事業であった。
当時の配送車とミサ子夫人
当時の配送車とミサ子夫人
オリンピックを挟んだ好景気も影響し、このリネンサプライ事業への進出を契機に、創業時10名前後であった社員は、1965年頃には100名を超えることとなった。
工場も足立工場(1962)を皮切りに、栃木工場、潮来工場、渋谷工場、川口工場(1971)と10年程の間に5つの工場を開設した。(当初の葛飾工場は一番番頭であった従業員に譲っている)
旧川口工場
旧川口工場

■リネンサプライの歴史

リネンサプライは欧米で始まったものであるが、1950年、大田区大森に設立されたデイベンロイによって、日本にはじめて紹介された。当初は日本の習慣になじまなかったため、米駐留軍関係、外国大使館等を相手に商売が行われていたが、環境衛生法の施行や、国民生活の向上、海外からの訪日客の増加で、東京オリンピックや大阪万博を契機に、リネンサプライ業界は一気に拡大の一途をたどることになる。
東海道新幹線 開通式
東海道新幹線 開通式
弊社での取り組みも、当初は、「リネンサプライ」という言葉自体が知られていなかったので、その意味と意義を説明することから始めなければならなかった。しかし、当時は旅館にいた大勢の女中(仲居)たちが、手作業でお客様の浴衣やタオル、シーツを全て洗濯していたため、特に梅雨時は洗濯物が乾かなくててんてこ舞いになる。リネンサプライへの潜在的なニーズは高かった。
現代のリネンサプライ工場
現代のリネンサプライ工場
・1960年 カラーテレビ 放送開始
・1961年 法人化、(株)白興商会(現:白興) 設立
・1962年頃 リネンサプライ事業への参入
・1964年 東海道新幹線 開通

4. 250万円の投資と5万円の売上

■現白興につながる、二度の転換

 ①手作業→機械化(ドライクリーニング)
 ②個人顧客→企業(リネンサプライ)
弊社の運命を決定づけた二度の大転換は、どちらも創業者による「これだ!」というひらめきが源泉であった。
しかし、全てにおいて、知識も経験もない分野である。リネンサプライ事業開始の当初は、もちろん失敗も多かった。八重洲の大丸百貨店からリネンサプライ用の浴衣を仕入れたが、
手作業での洗濯風景(写真は現在のベトナム)
手作業での洗濯風景(写真は現在のベトナム)
当時は「業務用」という知識も購入ルートもなかったため、かなり高価な価格帯での購入だったと聞いている。にもかかわらず、洗濯にかけたところ、生地が縮んで使い物にならなくなった。リネンサプライ事業として、最初に契約した大口の取引は九段会館。しかし、すぐにその失敗に気付いた。九段会館に関わる衣料品購入投資は250万円。一方、集金は月額5万円しかなかった。原価分でも4年以上たたねば回収できない。利益をだすなど、夢のまた夢であった。

■次への糧となる失敗

集金帰りの都電の中、創業者は一人頭を抱えた。このまま事業を続けていいのか・・・ やむを得ない状況。身内や同郷の幹部社員に頭を下げる。「生活にはいくら必要か?」と尋ね、必要分を超える給料については社員から借りる形として、なんとか資金を工面した。常に、「人が先、自分が後」を信条としていた創業者。悔しかった。何より社員に対して申し訳なく、悔しかった。
最初の大口取引 九段会館
最初の大口取引 九段会館
このように、数々の失敗と試行錯誤を繰り返した。
何事も未知の場所への道を作るには、失敗はつきものである。それを挫折とせず、次への糧としていくこと。これこそが、挑戦し成長できる企業の条件であると思う。数々の失敗を重ねながら、白興は着実に、売上を伸ばしていった。
現在の都電荒川線
現在の都電荒川線
・1964年~1969年 足立、栃木、潮来、渋谷の4工場 新設
・1964年 東京オリンピック
・1965年頃 従業員約100名に
・1965年 資本金を3,000万円に増資
・1969年 アポロ11号 月面着陸

5.苦労するものは、つくれば売れる

■おしぼりからおしぼり包装へ

1960年代前半。その頃、白興ではリネンサプライと同系統の事業としておしぼり事業に進出していた。受注を取るのには成功したが、今度は注文に生産が追い付かない。ネックは包装にあった。洗濯は機械化が進んでいるが、包装は1つ1つ手作業で行っていたのである。「こんなに苦労するのだから、この機械をつくれば売れるぞ!」
日立に納入した初期の包装機
日立に納入した初期の包装機
機械開発への情熱を燃やしたそんな時に、発想のもととなったのが、社内でくすぶっていたある事業。実は、一時、薬の包装事業へも進出しようとして失敗した経緯があった。その時に無駄になった包装機が使えるのではないか! 薬用包装機を参考に、さっそく技術者を2人雇い入れ3年の歳月をかけて、おしぼり縫製機第一号が開発された。
おしぼり包装機の特許は、現在も白興が保有しており、全国のほぼ全てのおしぼり業者で、白興の機械が使用されている。
現在のおしぼり包装機
現在のおしぼり包装機

■学びと発明

この発明の萌芽は、その後も活かされ、ハンガーに吊ったままラインで処理する立体包装機をはじめとし、二層タンブラー乾燥機、洗濯工程の自動化などの開発を行い、特許64件、実用新案29件が登録されている。(2021年現在) 多くの特許を申請した創業者であるが、その機械への興味は、中学時代の軍事工場での戦闘機組立経験に遡るのかもしれない。
ヨーロッパ視察時、創業者からミサ子夫人への手紙
ヨーロッパ視察時、創業者からミサ子夫人への手紙
また、新技術の導入にも積極的であった。1970年には当時としては珍しく、ドイツを中心とした欧州の業界視察旅行を実施。欧米の技術の高さに驚きつつも、逆に日本人の労働管理・従業員活動の素晴らしさに改めて気づき、「日本人の勤勉さを痛感・・・」と手紙に記している。オイルショックやバブル崩壊などの苦境も経験したが、このような徹底した合理化や新規事業開拓、そして投機的な事業には手を出さない社風も手伝って、何とか困難を乗り越えることができた。
取得した特許の一部
取得した特許の一部
・1966年 おしぼり包装機第一号完成
・1970年 欧州リネン業界視察旅行
・1972年 札幌オリンピック、沖縄返還
・1973年 第一次オイルショック
・1978年 新東京国際空港(現成田空港)開港

6.失敗と基盤固め

■危機からの攻めへ

1987年には急激な円高を背景に、中国からの輸入取引にいち早く取り組むこととなった。現在でも、同業界また近接業種で海外工場と直接取引を行っている企業はほぼなく、この時期の輸入事業への進出は、現在のコスト削減にも大きく貢献している。そして、貿易取引を契機に中国経済を知るにつれ、創業者の頭に「今の中国の状況は、昭和30年代の日本に似ている」という思いがわいてきた。
大連での会社設立時
大連での会社設立時
1993年には大連にクリーニング事業、1996年に北京にホテルリネン事業の合弁会社を設立。しかし、共産圏としての制約も多く、例えば電気の使用許可も下りなかった。隣の企業が稼働していない夜中のみ、近隣工場から電気を借りて使用するような状況。さらに、顧客がタオル等を持って帰ってしまう国民性もマイナスにはたらき、リネンサプライの文化自体を根付かせることができなかった。二つの事業は失敗に終わり、中国からの撤退を余儀なくされた。しかし中国にクリーニング機を導入したのは弊社が最初だと思われ、大連には、今も現役で白興の洗濯機械が使用されている。
白興(白光)の文字が残る現在の大連工場
白興(白光)の文字が残る現在の大連工場

■白興の基礎作り

現在、五つ星ホテルの進出等に伴い、中国にもリネンサプライの文化が、少しずつ浸透しつつある。進出する時代が早すぎた後悔を、つくづく痛感している。
海外事業での失敗も経ながらも、白興本体としては順調な経営を続け、この時期に、現在の白興の基礎基盤づくりが行われた。1985年には、念願の自社ビル(現在の本社ビル)が完成。「地域の人をアッと言わせ、楽しんでもらうために贅沢をした。」という、当時三千万の壁画(創業者の弟 堀井画伯による)は、いかにも創業者らしい試みであった。
現在の白興本社ビル
現在の白興本社ビル
また、この時期にまだ一社員であった現代表が、CI(Corportae Identitiy)の導入を行った。現在のロゴ等もこの時に制定したものであるが、まだ大手企業でも着手していなかった時期にCIを導入し、白興という会社が認知されるきっかけを作った。また、それがその後のイメージアップにも貢献したのである。
CI導入直後の配送車
CI導入直後の配送車
・1985年 本社ビル 壁画「無想」の完成
・1986年 CIの導入
・1987年頃 円高進行に合わせて、中国貿易開始
・1989年 平成天皇即位、消費税導入
・1990年 バブル崩壊
・1993~2003年 合弁会社大連白興洗染有限公司
・1996〜1999年 北京白興東通洗滌公司

7.踊り場を作る

■地固めと新規事業 -ユニフォーム、介護事業

1990年以降からは、地固めの時期であった。
リフト付きのトラックにワゴンごと載せる配送手法や、一人当たり一日処理量を400kgから1tへ飛躍的に向上させた守谷工場の新設など、白興の得意分野である効率化を深めていったのも、この時期である。2019年には栃木工場が完成し、関東で8工場が稼働することとなった。
ユニフォーム事業 白衣専門の戸田工場
ユニフォーム事業 白衣専門の戸田工場
そして一社員として、新規事業を模索していた四代目である現代表は、1995年ユニフォーム事業への進出を決める。本人によると、当初は「土日も休みがないリネンサプライに比べて、土日が休みの事業を作りたかった。高い志では全くない」とのこと。
さらに、2000年の介護保険法施行を契機に、2004年には介護用品事業へと参入した。
介護事業での一場面
介護事業での一場面

■自由から覚悟へ

代表は「経営の大変さを実感はしていなかった」と語っているが、この時期、白興は伸びに伸びていた。そんな時、現代表が創業者から言われた言葉。
「階段には、踊り場が必要だ。」
伸びていく時に、何の困難も経験せずに伸びてしまうと、転げ落ちる時に一気に下まで転げ落ちる。けれど、一度、踏みとどまった経験があれば、もし転げ落ちても、その踊り場で止まることができる。
オートメーション化された戸田工場
オートメーション化された戸田工場
現在の白興の良く言えば堅実、悪く言えばあか抜けない姿勢は、この言葉によるものが大きいのかもしれない。創業者の長男である承継者として、大海原を開拓し駆け抜けた創業者とは、違う覚悟が必要だ。現代表は、自分の背中にかかってくる強い責任をひしひしと感じた。
リネン事業 栃木工場
リネン事業 栃木工場
・1989年 守谷工場新設 一人一日当たり処理量400kgから1tに
・1991年 湾岸戦争、ソ連消滅
・1995年 三郷工場新設
・1995年 ユニフォーム事業進出
・1995年 阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件
・2002年 第四代社長 堀井正隆就任
・2003年 海外技能実習生 受入開始
・2004年 介護事業進出

8.打倒白興、打倒自分

■衰退の始まりを、変革の始まりに

弊社は、リネンサプライ業界では関東でもそれなりの地位を固め、代表はリネンサプライ協会の副会長も務めている。(2021年現在)
白興は、成熟の時期を迎えた。しかし、成熟は衰退の始まりとなる危険性もはらんでいる。
賀詞交歓会での社長あいさつ
賀詞交歓会での社長あいさつ
第四代代表の堀井正隆は、好調な業績にあぐらをかいた社内の甘さを痛感し、社内改革の必要性をひしひしと感じていた。
そこで、掲げられた言葉が、「打倒白興、打倒自分」。
賀詞交歓会では代表の堀井自身が「自分が従業員の前の、最大の壁になる!」そう激白し、自分を倒していけと言わんばかりの覚悟を見せた。
打倒白興、打倒自分
打倒白興、打倒自分

■自ら変革を行っていける組織へ

事業所内保育園設置、全ルートサービスの社員化、実習生への待遇改善など。時代に則した対応や従業員の福利厚生、そしてそれだけではなく、従業員が自分と家族に自社を誇れるように。まずは、管理職以下の待遇改善と、楽しく働ける環境の整備に取り掛かった。
賀詞交歓会
賀詞交歓会
そして、2020年には新しい経営理念「人の心を洗うことに誇りを持つ会社」を掲げ、中間管理職以上の意識改革に取り組んでいる。先は長く、改革を成し遂げるにはまだまだ遠い。
けれど、白興の強みである「人」を活かして、自ら変革を行っていける組織を目指し、少しずつ歩みを進めている。
・2007年 全工場がリネンサプライ協会 認定工場に
・2008年 リーマン・ブラザーズ経営破綻
・2010年 全ルートサービスの正社員化
・2011年 東日本大震災
・2012年 東京スカイツリー開業
・2016年 「打倒白興、打倒自分」人事改革に取り組む
・2017年 戸田工場が開設(ISO22000認証取得)
・2017年 三郷工場に事業所内保育園開設
・2019年 新天皇即位、令和元年
・2020年 経営理念「人の心を洗うことに誇りを持つ会社」制定
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